低学歴の親が子供に高学歴を求めてはいけないのか
旧トゥイッター現エックスを最近登録しました。何がトレンドかを知るためです。
でも、あまり活用できていません。
そんななか、Xで「低学歴の親が子供に高学歴を望むのは間違っている」という内容がつぶやかれていたらしい。
それで、そのつぶやきに対して、
「自分が見たことない景色を子供に見せてあげたいだけ」「学歴をお守りとして持たせてあげたいだけ」と言っている方がいました。
その方は、低学歴な親が高学歴を望んではいけないのなら、
「自分が登ったことのない山に、子供と一緒にチャレンジするのもいけないのか」とか
「甲子園出たことない監督が、子どもと一緒に甲子園チャレンジするのもいけないのか」ということを例にあげて、
低学歴の親でも子供に高学歴を望みたいことの理由付けにしていました。
別に、登ったことのない山に一緒にチャレンジするのも甲子園にチャレンジするのも
それが最初の動機からして子どもの意思ならいいんじゃない?と思う。
でも、疲れて登りたくない、下山したいと言っている子に対して、
「山頂に行ったら絶対にいい景色が見えるから!」「絶対にいい体験になるから!」と無理強いするのは、それは親のエゴだよねと思う。
そもそも、子供に何かになってほしいとか、何かを目指してほしいとか思うこと自体が親のエゴなんだと思う。
子供が〇〇中学に合格したいから塾に行かせてくれと言い出したときに
塾代払ったり、衣食住のサポートをしてる過程で親も一緒にチャレンジしたかのような気持ちになるのは、それはとっても素敵なことだなと思うし、
通いやすい塾を探してあげたり、風邪ひかないように栄養のある食事を食べさせてあげたりするって、親の愛だよねって思う。
だから、親が経験したことがない事柄に対して一緒に挑戦するのが悪いのではなくて、目標自体を親が決めていることがまずいんだと思う。
Xの内容に対して言及していた方はと言うと、子供に中学受験をさせたいという親の目標がまずあって、塾通いや受験勉強を親の働きかけで始めさせている。
そして、それは自分がすすめたことだから、親のエゴだという自覚はあるけど、学歴は成長したときに確実にお守りになるから正当な目標なのだ。
と言いたいのかなと思いました。知らんけど。
学歴があったらお守りになるって、それがもう親の価値観の押し付けそのものじゃないのかなと思うんだけど、どうなのかしら。
たとえば、
「野球やってたらチームプレイが学べるし、体力もつくし、人間的にも成長するから、大人になったときに野球やっていたことをお守りとして持たせてあげたい」
って言っている人がいたら、
「いやいや。野球じゃなくても学べるよ?」ってなるけど、
勉強だと、なんだか言いにくい現象がある。
それは、なんなんだろう?
だって、勉強で努力の大切さや、1点を取りに行く貪欲さや、知識や環境を手に入れられるかもしれないけど、
でもそれは、別に勉強じゃなくても手に入れられるよねっていう話ですよね。
でも、それをうまく説明できない。語彙力が欲しい。
私的には登山でいい景色見せたいも、甲子園に連れていきたいも、学歴をお守りとして持たせたいも、
どれも親の価値観の押し付けだと思っている。
だから、高学歴だろうが低学歴だろうが子供に学歴を望んではいけないのだと思う。
でも、望まないことを実践できる人の方が少ないだろうし、私はもちろんできない。
結局、山頂で見た景色に感動するかどうかも、甲子園に出たことで人間的に成長するかも、学歴を社会で活用できるかどうかも、その子の個性次第なんだよね。
だから、他人に何かを望むっていうこと自体が、価値観の押し付けであってエゴなんだろうなと思う。
子供にこれをさせたいとかこう育ってほしいとか思ったところで、その子はその子として生きていくしかできないもんね。
子供はそこにただいるだけで、存在を認めてあげないといけないんだと思う。
でも、それだと社会でお金を稼いで自立できないかもしれないから、
その子の持っているモノを社会でお金に変える方法が何なのかを探す手助けをするのが親の仕事なのかも。
ちなみに
私は小学校5年のころだったかな?金時山に登ったことがあるだけの登山初心者で、富士山を日帰りで登りました。
ふと思い立った父親に連れられての弾丸ツアー。
もちろん普段着。リュックの中には水筒とチョコが数粒入った程度。
それで、朝から登り始めてその日の夜に下山するという鬼スケジューリングだったから、
下山する頃にはもうあたりは真っ暗で、寒くて。
スニーカーは途中で穴があいたから砂と石が入ってくるしで、正直、私はここで滑落して死ぬんだろうなと思いながら下だけ見て歩きましたよ。
正直、登頂の景色を見た記憶もないし、成功体験にもなってない。
登山だって勉強だって甲子園だって頂に上ったところで、それが子どもが熱望してのことでなければ、大した成功体験にもならないし、なんの身にもならないんですよね。
ただ、やらされたという気持ちだけ残る。
他人に何も求めない。何も期待しない。それが幸せに生きていくための第一歩だと思う。
「友達がいなければいけない」という呪縛
大人になってからは特に友人関係は「無理をしない」ことを念頭に置いている。
価値観や境遇の違う相手と付き合っても、お互いのストレスになったり嫉妬したり、いい関係性が生まれないと気付いたから。
そうすると、だんだんと付き合う人間が減り、もともと少ない友達がさらに少なくなった。
アラフォーともなると、既婚か未婚か、親の介護があるかないか、子供が問題を抱えてないかどうかなど、
色々な境遇の違いが出てくる。
特に女性の場合、自分の問題と言うより家族の問題とか、自分を取り巻く周囲に翻弄されているケースが多い。
そんなときに友人と会ってランチをすると、めちゃくちゃ疲れてしまうことも。
それと言うのも、相手と自分の境遇が違うかもしれないときは、会話の内容にかなり気を遣うから。
会っている間も気を使っているのに、帰り道にすら「あの発言はまずかったかな。違う意味で受け取られてしまったかもしれないな」と気にしながら帰る。
「えー。私は友達と会うと楽しい気持ちしかないけどな」という人は、友達付き合いを楽しめばいいんだと思う。
そういう人にとってはコスパがかからない、素晴らしいモノなんだと思う。
でもたいていの人にとって、友達とは境遇の違いに落ち込んだり嫉妬して楽しい時間を共有できなかったりすることの方が多い。
それに加えて、
大人になってからも友達関係を持続させようとすると、連絡を取ったり会ったりという、能動的な行動が必要になる。
マメに連絡を取って会っていないと、気づいたら1年間1度も会ってなかったという事態に陥る。
そうすると、もういいかなという気にもなってくるし、今更連絡するのもな・・・という気になってくる。
それでも、20代のときは友達の結婚式で再会して、そこからまた友人関係が復活することもあった。
でも、アラフォーとなると、そんな場面はほとんどない。
友達関係を持続するために手間や時間といったコストを割いたとしても、相手の話に共感できる点が少なくなって、こちらの話にも、昔のようには共感されなくなる。
つまり、昔のような満足感が得られなくなる。
立場が違えば悩みも困っていることも異なるから、当然ではあるけれど、それを悲しいと思うのなら、その人にとって友達関係はコスパが悪いのだと思う。
アラフォーで家族がいて、子供がいて、生活できるだけのお金があって、たまに趣味を楽しんで、
それでもなお、友達が少ない自分を悩むのはなぜなのか考えてみると、
それはひとえに、ただの思い込みなんだと思う。
「ともだち百人できるかな」の歌で始まった小学校生活で、友達が多い人が偉いみたいな価値観を植え付けられた結果なのかもしれない。
なんだか、本能的な部分で友達がいた方がよいという考えを持っている。
友達がいないと老後困るんじゃないかと将来が心配になってくる。
つまり、今は友達がいなくて困っている場面は少ないのだけど、まだ起こってもない未来を想像して漠然と不安に思っているのだ。
デジタルがなかった昔の時代ならまだしも、今はお金さえ払えばたいていのことは一人で楽しめる。
むしろ仕事だ家事だ子育てだって忙しい日々のなかでは、
友達と会う時間を仕事の勉強に使ったり、趣味を楽しんだり、健康のために運動したりする方が満足度が高くなることの方が多い。
ストレスの9割は人間関係から生まれるというし、友達というのは無理に作らなくてもよいんだと自分を納得させている。
佐藤〇マは超人だからマネしてはならない
子供を育てるママなら一度は聞いたことがある名前、佐藤〇マ(伏字の意味)
あの方、東大理3に子供4人入れたことで有名だけど、
それ以上に子供の歯磨きに20分ずつとか、子供のドライヤーやってあげたとか、靴下履かせて起こしてあげたとかの
エピソードの方が、私的には胸にグッとくるんですよねえ。
かくいう、私の夫も東京〇学(伏字の意味)出身ですが、佐藤〇マには懐疑的。
多分、高学歴の人ってああいう、「このドリルやったら東大入りました」系は苦手なのかも。
だって、世の中には努力じゃ説明つかない天才が山ほどいることを身をもって知っているもんね。
親がスパルタだろうが、過保護だろうが、放任だろうが、子供の学力なんて育て方云々でどうなるモノでもないということを痛い程知っているからだと思う。
それでも、佐藤〇マのすごいところって、ぶれないところだと思うんですよね。
「中学受験は子供の意思なんて関係ない。親がやると決めたなら、覚悟を決めて取り組むだけ」
と、それはそれはサバサバと語っておられました。
「子供が言い出したから受験しました~」とか言うのは、たった12歳の子供に全責任を負わせることになるんですよね、きっと。
「中学受験を始めたのは親。結果に対しても親が全責任を持つべき」というお考えなのかと。知らんけど。
でも、あのママ、本当にお元気。
子供4人産んでなお、健康ということにもあっぱれだし(私は帝王切開だったので子供4人は無理)、
あんだけ批判やらなんやらされてもメディアに出続けるメンタルの強さよ。
普通の人間とはキャパが違う。
それに子供たちも遺伝子的にとっても優秀だし、なんだか素直そう。そしてみんな、なんだか性格がよさそう。
もうさ、生まれながらにして違うんだよ。
だってさ、佐藤〇マが子育て大変なときに佐藤〇マの両親、飛行機の距離なのに何度も飛んできてくれたって言ってた。
私の母はエレベーターの距離でも飛んできてくれなかったよ(あ、待って、涙出そう。)
あとさ、
佐藤ママ(伏字めんどくなった)が、両親の育て方でショックだったのが、
1本しかないヤクルトを自分には欲しいかと聞かずに弟にあげちゃってたこと。って言ってた。
だから、佐藤ママは4人の子供に対して年齢差とか関係なく、お菓子もジュースも平等に分け与えたって。
私が両親の子育てでショックだったことはね。うーんとね。色々あるけどね。
衝撃だったことは
受験前にテレビ見てたら父親に「受験落ちたら体で払ってもらうからな」って言われたことかなあ。
だから、私は息子にそんなことは言いません。キリッ。
とにもかくにも、佐藤ママって、産まれながらの選ばれし人。
そういう人のことは指くわえて眺めていればいいのであって、間違ってもマネしようとしてはいけません。
「優秀な子供を育てた親は子育てに成功している」という先入観を捨てるべき
周りでは中学受験に参戦する家庭が多い。
自分が私立中学出身だからという人だけでなく、
地方から出てきて公立中学・公立高校から優秀な大学に入ったような人でも、子供に私立中学を受験させようとしている。
上手くいっている家庭もあれば、テストの成績によって子供を怒鳴ったり人格否定をしたり、はたまた暴力までふるっている親もいる。
それによって、子供が不眠症になったり抜毛症になったりと、心身症のような症状が出ている家庭もある。
受験に異常なほど熱を上げている親ほど、「中学受験で子供の選択肢を広げてあげたい」と言う。
でも、そこで行われているのは、偏差値至上主義からくる子供の将来を狭める教育。
小学校のテストが80点なんて人としてありえないとか、公立中学にいったらいい人生を歩めないとか、
勉強ができる人間が偉い、勉強ができる方が幸せになれる、偏差値の高い大学に入れなかったら人生終わりだという価値観をコツコツと子供に植え付けながら生活をしている。
偏差値が高い大学、たとえば東大・京大に入れる人なんて一握り。
そんな狭き門を子供に目指させて、
それに入れなかったら人生終わりという価値観を植え付けることは、
子供の将来の選択肢を広げるどころか、狭めていることに気が付かないのだろうか。
そもそも子供のテストの点数が悪かったときに怒鳴る親の心境とは、どういったものなのだろう。
子供が優秀でないとイライラするのは何故か。
優秀でない子供を認められないのは何故か。
それは「勉強のできる子供の親は子育てに成功している」という価値観を持っているからなのではないか。
「優秀な子供がいる自分は子育てに成功している。だから、自分には価値がある」と考える。
そうすると、「優秀でない子供がいる自分は、子育てに失敗している」という感覚になる。
それは困る。自分に価値がないことになってしまうから。
だからこそ、子供を怒鳴ったり叩いたりしてまで、勉強をさせようとするのではないか。
子供の勉強という、いわば他人の人生にどうしてそこまで熱心になれるのだろうかと疑問だったけれど、
おそらくこういう人たちは、子供が勉強ができるか否かというのは、子供の問題ではなく自分の問題なのだ。
だからこそ、子供が優秀であることに異常なほど執着する。それは、自分事だからだ。
でも、勉強ができるかどうかは人格のすばらしさには直結しないし、
どの程度勉強ができるかは遺伝の問題で、胎児の時点ですでにある程度決まっているモノだから、子育ての上手さとも直結しない。
それに何より、子供の優秀な成績は子供のモノであって、それによって親が評価される筋合いのモノではない。
子供が勉強ができるかどうかは、所詮、子供自身の問題であって、究極的には親には無関係なのだと自覚していないといけないのだと思う。
子供の役割「ギバー」
たぬかなさんの配信の切り抜きをよく見ているんですが、彼女は三人兄弟の真ん中っこで、圧倒的なギバーらしい。
おかあさんに60万だったか70万だったかの美容施術をプレゼントしたみたい。
でも、おかあさんは常に弟さんの方へ気持ちが向いている、と。
私はたぬかなさんみたいに面倒見もよくないし、性格もよくないから、
母に美容施術はプレゼントしないけど、
昔は母の愚痴聞き役を務めていました。これはこれである意味、ギバーだったのかもしれない。
母にとっては、複数人いるうちの一人と仲良くできていれば、母親ごっこは完結するのかもしれないけれど、
娘にとって母親は一人だから、その母に母親役を降りられてしまうと、娘役ができなくなるんですよ。
女性特有の悩みを相談できる人がいなかったり、友達とのいざこざやモヤモヤを吐き出せる相手がいなかったりするんですよね。
だから、母親役を別の人で埋めようとする。
でも、母親役って難易度が高いから、誰でもそう簡単になれるものではない。
探す過程で、期待して勝手に傷ついて、また別の誰かに期待して勝手に傷ついて・・・
そうこうするうちに、あーもう人付き合い面倒くせえなって思うようになって。
やっぱり人間関係って与え与えられの関係じゃないと続かないんですよね。
与えてほしい与えてほしいって、がめつい顔をした人間の周りに、人は集まってはこない。
親に恵まれた人がもしいるのなら、その人って、めちゃくちゃ幸せだと思う。
なんの努力もしてなくて、母親役をゲットできているんだもの。
容姿が良く生まれたとか、頭がよく産まれたとかその一種の運のよさかもしれないけど、
でもでも、愛をたくさん与えてくれる人なんて、後々探そうと思っても、なかなか見つけられないんですよ。
しかも、厄介なことに
愛を与えられてないと、まず与えてくれる人を探そうとするから、なかなか見つからない。
そもそも愛を与えられてきた人って、自分が与えることにも抵抗なかったりするから、きちんと愛を与えて与えられて・・・対等ウェイ!みたいな関係が容易に築けたりする。
歪な人って歪な人を選びがちなのかな。
人って疲れる。
都合よくセフレにされるときってこういう気持ちなのかな
私は三姉妹の末っ子なのですが、昔から家庭内での存在感は薄め。
父も母も、女が三人も続くと子育てにおける新鮮さもなくなってくるんでしょうね。
イベンドごとも「あーまたこれね。はいはい。」くらいのテンション感。
リレーの選手に選ばれても絵画で入賞しても、あーはいはい。的なテンション。
思い返してみれば、母は私の高校には1度しかきたことがありません。入学式と卒業式は完全スルー。
唯一、三者面談のみきてくれたな。ありがとう、おかあさん。二者面談にならずに済みました。
それくらい昔から私への関心が薄く、
それは私自身も重々気づいていたことではあるけれど、
三姉妹全員が結婚して夫・孫が加わって・・・
そうなると、だんだん私への関心の薄さが気になってきたんですよね。
というより、目に見えて差が分かるようになったというべきか。
私の母が、私のことを思い出す時間は1年間でトータル1時間もあればいいほうだと思う。
先日は私以外のメンバーで海外旅行へ行っていました。なんだか、私の存在はなかったことにされている。
でも、私は海外旅行に参加したいわけではないのです。誘われて断ったのは、私。
行ったとしても絶対毒を抱えて帰ってくることになるから、行きたくないなと思って断った。
それなのに、姉たちとよろしくやってる母を忌々しく思ってしまう。
あーなんて面倒な性格なんだろうと思う。
私に残された道は二つしかない。
1.母に期待しないで距離を置いて母の中から存在を消す
2.嫌な思いをしてでも仲良くして存在をちらつかせる
それなのに、
3.母の人生に私が存在して、仲良くする未来
という選択肢がどこかに落ちてないだろかと、いつまででも探している。
思いを寄せる彼にセフレ認定されて、都合よく夜だけ呼び出される関係のときって、こういう気持ちなのかな。
彼女に残された選択肢も二つ。
1別の大切にしてくれる誰かを探す
2都合よい自分でも傍にいたいからセフレにとどまる
でも、
3彼女にしてもらう未来
を期待してダラダラと関係を続ける。
こんなようなことをふと夫に話したら「え?ちょっと違くない?」と言われました。
期待しないというのはどうしてこうも難しいのだろう。
人に対して要求しすぎてしまう
私は自分の悩みを他人に打ち明けるのが苦手だ。
人に、私はこれに困っているとか、これを手助けしてほしいと言うのも苦手。
普段は自分の要望を抑えつけているから、控えめな人だと思われている。
だけど、ものすごく衝動的に、異常なくらい、わがままになってしまうときがある。
私の親は、私が体調を崩すと機嫌が悪くなった。
子供が何かして、自分を困らせる事態になることを極端に嫌がった。
それでいて、私は母の愚痴聞き役だった。
同等の人間同士の対話って、こちらが話してあちらが話してと双方向になるけど、私の母は自分の愚痴を話し終わるとどこかに行った。
私の愚痴を聞く人はいなかった。
母は、「私は仕事が忙しいんだから、あんたが家事を手伝うべき」という考えだった。
お米を研ぐとか、洗濯物を干すとか、そういうことをしていないと怒鳴られた。
でも、母は私のご飯を用意してくれなかった。コンビニで父の分の弁当も買った。ナプキンを買っておいてくれなかったから、小学生のころから自分で買いに行った。
拒食症の姉のご飯も用意した。ちゃんと食べているかを母の代わりに監視した。
私は困っていることは自分で対処した。でも、母の尻ぬぐいもさせられた。
私の心の中には恨みつらみがたくさんある。
優しい夫がいて賢い子供がいて、それでもまだ私は母を求めている。
自分の要望を聞いてくれる人を求めている。
たまにその役割を夫や友人に押し付けてしまう時がある。
私の気持ちを分かって!私の意見を聞いて!私私私私・・・・そこに相手はいない。ただ私の気持ちがあるだけ。
双方向ではなく一方的な要求。
それはよい人間関係ではないと分かっているのに、どうしても、自分の要望を押し付けてその人がそれをかなえてくれるかどうか確かめたくなる。
それでだめになった人間関係が山ほどある。
この衝動を抑えられるようになる日はいつくるんだろう。